気付いた時には、既に手遅れだった。

目の前に迫るトラック。
けたたましいクラクションと、ブレーキの音。

 

人は、死の直前に走馬灯を見るというが………。
そんなものは欠片も見えない。

代わりに見えるのは、トラックの車体。

そして、何も無いはずの場所から滲み出てくるようにして現れる黒い人影―――

(………人影?)

そう思った瞬間、彼はそれに横へと突き飛ばされた。

 

「………う?」

一瞬だけ、意識が飛んでいたらしい。
気がつくと、俺は倒れていて………。

身体の上には、柔らかくてそれなりに重いものが乗っている。

「無事、だね」

それが喋った。

「………え?」

俺に覆いかぶさっているのは、世間一般で言うところの『女の子』だった。
状況が良くわからないまま固まっている俺に、彼女はニッコリと微笑んで。

ふっ、とその姿が掻き消える。

 

騒ぎ始めた周囲を他所に、俺はただ呆然としていた。

(一体、今のは何なんだ………?)

 

 

病院を出た所で、大きく伸びをする。
あの後、念のためにと検査を受けさせられ………既に空は暗くなっていた。

突っ込んできたトラックを、横に飛んで交わした。

周りからは、あの時の状況はそう見えたらしい。
医師から『大した反射神経と運動神経だ』などと驚かれた。

(まったく………どういうことなんだ?)

唐突に現れて俺を助け。
一声だけ残して消えた彼女。

あれは、幻だったのだろうか?

 

闇夜に紫煙が昇っていく。
病院からの帰り道に寄った、小高い丘の上。
公園であるにもかかわらず、ここに来る人間はほとんどいない。
そんな場所で。

据え付けられたベンチに座り、俺はゆっくりと煙草を燻らせていた。
何かあるわけでもない。
ただ何となく、ここに足が向いただけの事―――

「―――こんばんは」

唐突に、背後から聞き覚えのある声がした。
足音すら聞こえなかったはず、そう思いながら振り返る。

「………そうやって、いきなり現れるのが趣味なのか?」
「趣味というより、癖かな。あんまり人目につきたくないからね」

そう言って、あの時俺を助けた少女が静かに微笑む。

「一応、礼くらいは言っておいた方がいいか」

ベンチから立ち上がりつつ、俺はそんな事を言う。

「いいよ別に。好きでやったことなんだから」
「まぁ、それでも助かったのは事実だしな………ありがとう」
「律儀だね、君は」

彼女は、本当におかしそうに笑う。
その姿は、どこにでもいるようなごく普通の少女のものだ。
しかし、彼女の答えはあの時俺が見たものが正しいと言っているようなものだ。

「説明、してくれるか?」
「そうだね………魔法って言ったら信じるかな?」
「普通なら信じないだろうな」

もっとも、普通では考えられない事があの時起こったのだが。

「普通、ね。そんなものは当てにしないほうがいいよ」
「世界の一部を切り取って、それが全部だと言ってるようなものだからさ」

夜空を見上げ、彼女は呟くように続ける。

「世界っていうのはそれほど単純でもないし、簡単でもない」
「だからと言って、魔法があると言われて『はいそうですか』って訳にもな」

目の前にいる少女は、とてもじゃないが『魔法使い』には見えない。

「さて、どうすれば信じてくれるのかな………?」
「一番手っ取り早いのは、実際に見せてもらう事だろうな」
「なるほど、それじゃ………」

まるでオーケストラの指揮者のように、彼女は両手を軽く掲げる。
俺が何か言うよりも早く、その手が振り下ろされ―――

 

「おぉ?」

空に浮いていた。
何かに吊られているとか、落下しているとか言う感覚は全く無い。

「空を飛ぶっていうのは、魔法使いの基本でしょ?」
「確かに、そうかもしれないが………」

何も身体を支えるものが無いというのは、結構怖いものがある。

「無事に降りられるんだろうな?」
「当然。じゃなきゃやらないって」

彼女が指を鳴らすと、再び丘の上に戻っていた。

「………やっぱり、足が地面についてるってのは落ち着くな」
「そう?慣れればあれも楽しいものだけど?」

俺の目の前に立ち、彼女がこちらを見つめる。

「それで、信じてくれたかな?魔法は?」
「ああ………ただ、問題というか不満な点がひとつだけあるな」
「ん?」
「何というか、魔法使いっぽい格好じゃないのがな」

俺のその言葉に、彼女は腹を抱えて笑い出す。

「確かにそうだね。どこから見ても普通だろうし」
「自覚はあるんだな」
「そりゃね、でもローブとか動きにくい服装は嫌いなんだよ」
「なるほど」
「まぁ、格好くらいならいくらでも変えられるけどさ」

そう言った次の瞬間には、彼女はローブを纏っていた。

「こんな風にね」
「便利なものだな、まったく………」

再び軽く手を振ると、彼女の服装は元に戻っていた。

「しかし、毎度毎度同じ事を言うね。君も」
「ん?何の事だ?」
「次に会った時も、同じ事を言われるんだろうね」

俺の言葉には耳を貸さず、彼女は独り喋り続ける。

「相変わらず、ここに来てるみたいだし」
「おい、何を言って………?」
「次に会った時、今の事を覚えていたら教えてあげるよ」

そう言って、彼女が俺に手を伸ばし―――

 

闇夜に紫煙が昇っていく。
手に持った煙草は、灰が長くなっていた。

「あ〜………?」

少し、呆けていたらしい。
検査で異常は無かったし、問題無いとは思うが。

携帯灰皿に煙草を捨て、俺はベンチから立ち上がった。

ここに何がある、というわけではない。
時折、何となく足が向くだけ―――

 

 

 

Hexegeschlossen.